わたくしは「Negtva netie」です?

 

 

1935年現在のモルドバに生まれました。父は陸軍大将(当時はモルダヴィア民主共和国)です。しかし母親(エリシェバ・ネティエ)は名無しのなんとやら…所謂「妾めかけ」だったのです。母親は二人の子供、姉(エレナ)と私を産みました。姉はベッサラビア人と結婚し、そして従軍看護婦となり、''41年、ナチスドイツ軍と戦い、バルバロッサ作戦において塹壕の中で死に絶えました。わたくしもまた姉の後を追い、従軍看護婦を目指しておりました。第2次世界大戦後、''47年12月30日、ルーマニア人民共和国の誕生に伴い、わたくしもルーマニア人となったのです。

当時は看護婦を目指す女性たちの「学校」なんてありませんでした。すべて実戦の渦中で技術を身につけたものです。ルーマニア人民共和国は当時、ソビエト連邦の影響下にありました。私はユダヤ人の血統ですから、そのことをひた隠しにせざるをえませんでした。

そしてルーマニア共産党書記長ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジによってシベリアへ送られることになるのです。

シベリアではビロビジャンの収容所へ連行されました。そこでは、医療器具・薬品などありませんでしたが、看護婦らしいことは精一杯やっておりました。しばらくするうち、ある日本の方と知り合い、手引きされ、そして日本に逃亡するのです。後にその殿方は大物財界人となられました。

日本の舞鶴港に到着したわたしは、広島県のとある田舎町にやってきました。日本海沿いを経て兵庫県播磨をぬけ、岡山県高梁市から広島県に逃れて来たのです。日本の方は皆優しく接してくれました。当時昭和25年です。食糧危機をようやく脱しようという時期でしたので、わたしからすれば美味しいものばかり食べさせていただきました。感謝の念に堪えません。

わたくしは広島市から少し離れた場所で、看護婦へと歩み始めたのです。実は結婚しております。子供は一男一女、現在は離ればなれですが、仲良く暮らしております。

そして現在「日本のこころ、日本人とは…」を追い求めて余生を送っております。知識に対する欲求が、いま人生最大といっても過言ではございません。

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*1:姉エレナの勇姿です

*2:母エリシェバの墓

*3:ルーマニア共産党から指名手配された証拠です