また一つ年をとりました。55歳です。同姓同名の人と同じ日に生まれた人を紹介します。

もう10数年前になりますが、Geogleで調べたら同姓同名の方がいました。栃木県足利市にある小堀レース(株)の社長さんです。

http://www.koborilace.co.jp/htm/outline.htm


平成10年に社長に就任され、現在に至っているらしいです。お電話させて頂いて、メールも頂いて「お互い頑張りましょう」とエールの交換をさせて頂きました。会社の経営もそうだし、繊維業界である厳しいのは当然だと思ったが、やはりそうだった。しかし、こうして立派に会社を経営されているし、会社のHPも立派です。最後の更新が昨年の3月というのが少し気になりますが、社屋は綺麗だし、メインバンクもしっかりしています。その後、連絡を取れずにいますが、お元気でしょうか?

 

そして次は同じ日に生まれた有名人です。この方とは面識もありませんし、そのチャンスはまだ巡ってきていません。こちらはその気があるのですが…そうです。石原慎太郎東京都知事の次男坊、石原良純さんです。

 

http://www.ishihara-yoshizumi.com/index.html

 私からすれば羨ましいかぎりの家柄、慶応大経済から俳優、気象予報士、テレビタレントとマルチな活躍をされている方。私からすれば羨ま2002年に結婚され、一男一女の父親でもあります。一方、前科1犯で死にかけたジャーナリスト。父は亡くなり母親が特養ホームでお世話になっており、実家は競売にかけられ、独身で子供なし。真逆ですよね。

彼の父親である慎太郎さんもうちの亡父と同じ年です。その息子である私たちが昭和37年1月日生まれなんですよ。

でも良純さんとは共通点が沢山あるのも事実。彼のプロフィールを拝見すると、「地理」が好きだった。酒も日本酒が好き、ダムがすきとか環境問題に関心があるとか(関心は私もあります)、は少し違いますが、時刻表がすきで鉄道が好き。というのは同じです。わたくしも小学生低学年の時、時刻表を買いあさり、バスで広島駅近くの踏切小屋で1日中往来する電車・汽車を見ていました。

思想や信条、境遇、家庭環境、は全く違いますが、似ているところも沢山ある石原良純さんとも機会があったら熱燗で一杯やりながら様々な話をしてみたいです。

 

(文責 廣島ネゴトハネテイエ事務所・小堀義幸)

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新年の年頭にあたりテーマを探していたら…。

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20161231-OYT1T50138.html

私のFBの「愛する日本」というページに掲載しました。読売新聞平成29年元旦付けの社説です。

またマスコミ批判になってしまいました。正月早々、違うテーマにしたかったのですが、こればかりはしょうがないです。タイトルが「反グローバリズムの拡大を防げ」

で、まず私の胸にピストルをあてた状態になっております。

中身を読むと、まあ突っ込みどころ満載であります。

冒頭から→反グローバリズム」の波が世界でうねりを増し、排他的な主張で大衆を扇動するポピュリズムが広がっている。国際社会は、結束を強め、分断の危機を乗り越えなければならない。

国際社会の敵=反グローバリズムと書かれており、私、反グローバリストはシケイ

!と言われているに等しいですね。そう言えば日本共産党の旗開きでも志位委員長が「グローバル資本主義」を批判していましたが、まさか共産党が批判したからグローバリズムを推進していきましょうなんて書いたのではありますまい。e

 

トランプが米大統領に就任しようとし、プーチンと和平を模索し、中東で、シナ共産党と折り合いをつけて…等々、誰も信用しなくなったマスコミそのものです。「同盟関係の意義を確認したい」まあこの辺は許してあげますわ。

それから「勢いを増すポピュリズム」と見出しをつけて、

市民のテロへの恐怖心をも利用して、難民や移民を拒否すれば安全や生活の安定が保てるかのように唱える。排外主義をあおポピュリズムの拡大は、人や物の自由な移動を進めるグローバリズムの最大の障壁になりつつある。

 米欧で反グローバリズムポピュリズムが伸長する背景には、リーマン・ショックを契機とした世界的な経済成長の停滞がある。

文節を跨いだことをお許し下さい。反グローバリズムポピュリズムが伸長する背景にはリーマンショックを契機とした世界的な経済成長の停滞がある?

まるであなたたちが、経済成長の停滞とは関係ないところでぬくぬくとお過ごしになっていらっしゃる言い分ですね。人や物の自由な移動をして、国境をなくしごちゃごちゃに混ぜくりかえすなんて愚の骨頂です。移動時間の短縮など、技術の発達がもたらした恩恵は存在することは認めますが、行き過ぎです。

そしてポピュリズムの蔓延を否定し、最後は→済資源を、国境を越えて効率的に活用するのが自由貿易だ。多国間での取り組みをさらに進め、新興国の活力や技術革新の成果を世界に広げることで、成長の復活を目指すしかない。それが国際政治の安定の基盤ともなろう。

と締めくくっている。

ポピュリズムを批判するならば、「読売巨人軍」を手放す覚悟はあるのでしょうか?あれこそ大衆迎合主義そのものではないですか?大して儲からなくなったですものね。それともルパート・マードック率いるFOXTVの大リーグ中継に白旗を揚げられたのでしょうか?私、正直言って生まれてこのかたずっとカープファンを自認してきました。しかし昨年、24年ぶりにカープが優勝したにもかかわらず、大リーグファンに転向させていただきました。理由は全試合に応援に行けないファンとしてテレビ中継の質が、全くなっていないからです。FOXTVの中継は選手の力量以上に差があります。

この社説を書いた方は経済のこと何も分かってない経済部出身の方ですか?

丸山さん、どうなってるんですか?読売新聞は。主筆である渡辺恒雄氏の動向も気にならないと言えば嘘になります。

東京新聞を攪乱してやろうとしておりましたが、読売新聞お前もか…です。

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また目が腫れて困っております。


www.bbc.com

懸命に働く彼女の姿に様々なことを教わりました。わが日本に是非来ていただきたい。

 

英国で仕事を探している人に、電話越しでかかってくる相談を親身になって応対する

女性のレポートです。The breakthrough U.Kという慈善団体のおかげで彼女は仕事を得て働くことができた、と感謝されています。今の英国の政策では障害者が働くには50年近くかかると批判されています。

彼女は3年間。職探しをしている間、「相手を揺さぶって、チャンスをちょうだい」と言いたくなった、(けど我慢しました)と仰っています。また、鬱病の一歩手前までいったとも仰っています。=死にたくなる一歩手前まで行ったということです。もっと職探しをしている人全部のニーズを、一人ひとり大事にすべきだ、とも仰っています。

 

我が国にも障害者雇用の問題はたくさんあること、理解しているつもりです。しかしそれ以上に彼女は様々な事を示唆してくれました。

政府になかなか届かない声をいかにして届けるか、英国という国はこんなに素晴らしいのだということ、メイ英国首相に彼女の声が届くといいな~と共に、私たちの心を揺さぶるものでした。

このレポートが多少加工されていても、それはそれでBBCを褒めます。それぐらい彼女が働く姿は美しく、賞賛されるべきものです。

わが日本とは縁遠い存在ですが、是非一度、訪れていただきたいと思います。このレポートを拝見して涙が溢れてきました。

 

東京新聞・市川隆太記者の追悼文

 

これは設定(Negtvanetie)云々なしで書かせてきただきます。中日新聞北陸本社・報道部長の市川隆太氏が2014年7月14日に亡くなっている事を知りました。そろそろ市川さんに挨拶しておかなければと思い、ネットで下調べをしていました。そしたら…

 

市川さんとはいつでしたっけ?神奈川県警のキャップをやっていらした時でした。当時私はまだ、週刊ポストから週刊プレーボーイに移ったばかりの頃です。平成2年の暮れくらいです。「リクルート事件」が起きる前の事でした。最初にお会いしたのは県警記者クラブの部屋で、当時クラブには雀卓があり、また酒瓶も隠してありましたよね。

日本共産党幹部宅盗聴事件の後です。当時、私はこの事件を調べる為、緒方靖夫日本共産党・国際部長の自宅は勿論、担当検事へ取材もしようとしていました。まだ駆け出しだった私は、全国紙の記者の方へも取材しておりました。最初、当時横浜市役所のクラブに東京新聞尾崎行雄記者がおられ、ある大手紙記者から尾崎さんを紹介され、その尾崎さんから市川さんを紹介されました。

尾崎さんと市川さんは私が、広島に戻った後も気にかけていただいて、あるとき電話したら「どうして逮捕されたこと、気にしてるんですか(こっちに戻って書きなさい)」と励ましていただきました。あぁ…涙で目が腫れます。

前の一文でも触れたように八尾恵さんインタビューの時も、直接はお願いしませんでしたが、ご協力していただき、応援して下さいました。リクルート事件の時も、朝日新聞に抜かれて悔しい思いもしました。

学年は私より二つ上で、青山学院高等部から早稲田大学政経学部それから一時、日経新聞に在籍されていらっしゃいましたよね。無頼派を装いながら、実は何事もきちんとこなす記者でした。まだ私の手元にはありませんが、「番犬の流儀・東京新聞記者市川隆太の仕事」という全く遺志にそぐわない遺稿本が出版されています。責任者は一体誰なんでしょうか?く、悔しくて私、この一文を書き直しました。

この本には恐らく書かれていないであろうこと、たくさんあります、市川さんの伝説は…川崎市郊外の竹藪から1億円が発見された時も、私に電話かけて来て「ポスト(週刊ポスト)がこの件で抜いたらしいのだけど、発売日前にどこかで手に入らないか?」と、私は「新橋駅前だったら発売前の日曜に売っています」ってお応えしたこと今でも鮮明に記憶しております。

よく横浜・野毛にあった焼き鳥屋さんの「鳥かご」で飲みました。こちらが酔っていても、いつもニコニコして情報交換したあと、颯爽と記者クラブへ「原稿の締め切りが」といって戻られました。

東京に職場が移り、特報部部長として活躍されたのも広島から大変嬉しく思っていました。TBSのニュース23で市川さんの仕事ぶりが放送された時も、「やはり市川さんはこれから新聞記者を目指す人の手本になる方だな。憧れる人たくさんいるだろうな」と思いました。

最後にお電話でお応えいただいたのが特報部長の時ですから、何年経ったでしょうか?お亡くなりになった時は私は、東広島・呉道路の馬木ジャンクションの最終工事現場で警備隊長しておりました。ちょうど暑かった頃です。まさか脳出血で、しかもほとんど即死状態だったそうですね。

私も、昨年4月に視床出血を起こし入院しました。1ヶ月で退院でき、今では薬を飲み、血圧測定をきちんとすれば、こうして元気で仕事ができるまでになったんです。今、私がやろうとしていること、書こうとしてること、市川さんだったら、何ておっしゃるでしょうか?同じ2014年に他に二人、大事な人が亡くなったと事を知りました。三人目です,市川さんが…。皆、同列に語る事なんて不可能です。

 

尾崎さん、東京新聞が最近、なにか変だなと思っています。市川さんの後輩に当たる方の仕事ぶりを見ていて。全力で批判しても宜しいですか?御社を…あぁ…また目が腫れる。何事もきちんとやり過ぎたのではないですか?市川さん。

ちょうど、今日、他紙のことですが、こんなニュースが入ってきました。市川さんは確かに「伝説の記者」ですが、早すぎますよ、伝説となるのは…

www.sankei.com

 

 

 

「北朝鮮による拉致被害者全国協議会・広島支部」の報告です。

さて、今日は「北朝鮮による拉致被害者全国協議会・広島支部」の広報活動があるということなので告知します。12月11日(日)14:00から広島市内福屋八丁堀本店で行います。皆さんお忙しいとは思いますが、どうかのぞいてやって下さい。

私の分身=いや本人だろ!もおりますので宜しくお願いします。

 

私が北朝鮮による拉致問題と関わった経緯

私の駆け出し記者の頃。

私は、1987年から週刊プレイボーイの記者をしておりました。最初は教育問題を主に取材しておりましたが、環境団体「グリンピース」の支援者繋がりで、ある横浜の女性弁護士に八尾恵さんのインタビューを申し込みました。1988年1月のことでした。八尾恵さんが横須賀のスナックで働いていた時、神奈川県警外事課に逮捕された事件でした。当時、私は以前に共産党幹部盗聴事件(その頃は週刊ポストに在籍しておりました)の取材で、某大手紙の横浜支局記者(司法担当)と懇意にしていた関係もあり、この事件に興味を持ちました。そして横浜のホテル「ザ・横浜」だったと記憶しておりますが、
単独独占インタビューしました。「なぜ、私が逮捕されなければいけないの」という彼女の主張、そのままに週刊プレイボーイに書きました。発売後、割り付け担当の方から、随分褒められたと記憶しております。
私もその司法担当記者から、軽く忠告を受けていたにも拘わらず、有頂天になっておりました。申し訳ありません。

八尾恵さんに関してはその後、東京地裁有本恵子さんの拉致に関係したと証言し、文藝春秋誌上で謝罪しているので詳しくは割愛します。がしかし、その後いくらでも取材執筆する機会があったし、拉致問題そのものに踏み込めていたのにジャーナリスト失格といわれても仕方ありません。その後、私は様々な問題を取材・執筆してきました。「イトマン事件」「HIVウィルスによる感染者の問題」「リクルート事件」等々、主に週刊誌の記者をやっておりましたので当然と言えばその通りです。

私の中学生時代と横田めぐみさん

さて、話は私の中学生時代の話です。1974年3月、広島市立戸坂小学校を卒業し、4月に広島市立戸坂中学校に入学しました。
当時、横田めぐみさんは1976年年7月まで隣町の市立牛田新町小学校に通われていました。まだ、直接お会いできておりませんが友人の方に伺いたいと思います。
当時の私は小学校6年生の頃ですが、地元のソフトボールのチームで補欠でした。「ジャガーズ」という名の広島市内でもそこそこ強いチームでした。練習は主に戸坂小学校のグラウンドでやっていましたが、よく太田川の河川敷で野球をして遊んでいました。今でもありますが、河川敷のゴルフ場で小さなポンポン船に乗らせてもらいながら楽しく遊んでいたものです。
今の市立東原中学校が建つ前は豚小屋があり、ぷ~んと臭ってきたなあということ思い出します。横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されようとしているなんて、北朝鮮という国の存在さえ知りませんでした。
そして市立戸坂中学校に入学しました。ゴミ埋め立て地の後に作った新設校で、当時、運動場からガスが出て体育の授業はバスで県営グラウンドまで行ってました。そうですよね、高橋信雄先生。私の中学校時代の恩師、ジャーナリストになろうとしたきっかけは、高橋信雄先生です。先生は現在、広島県原水協代表理事にありますし、憲法9条の会の重鎮です。先日もご自宅に伺ったのですが、お留守でした。

先生は当時から、命を守るいう使命感に燃えている先生でした。野村君が夏のキャンプで不慮の転落事故で亡くなったとき、先生が狭い道を走って、三段峡の駅まで警察・医療機関に連絡していったの、今でもはっきり憶えています。
当時から「バリバリの共産党員」で授業中よく、県教組を批判しておられましたよね。なんで先生の組合を批判するんだろう?と思っていましたが、社会党系の組合を批判するのは当然ですよね。それが後に全教広島の委員長も歴任され、全国組織の役員のみならず、憲法9条の会、原水協の団体の要職につかれました。原爆のこと、憲法9条のこと、同和問題のことをみっちり扱いて教えてくれましたが、北朝鮮のことはそんなに
教わったという記憶はありません。少しは触れましたかね?しかし、恨むなんて毛頭そんな気はありません。むしろ目をかけていただいて感謝しております。それを詳しく書くのは次にしますが…。

それと数野文明君、あなたは小学校から高校は別でしたが、予備校までずっと一緒でした。現在は県立可部高校の教師をされていると、奥様から伺っております。小学生の時、近くの数甲神社で神楽を舞ったの憶えてますか?あなたは成績抜群でとくに
予備校時代、日本史は全体を通して1番か2番でしたよね。後に広島大学に進まれ研究者として活躍されていたこと誇らしく思っておりました。
それから著明な指揮者になられた山下一史君、中学からは東京の私立桐朋に行かれたので関係ないと思われるかも知れませんがそんなことないと思います。山下君のご自宅に呼ばれ、百科事典を読ませてもらい嬉しかったこと今でも憶えています。
亡くなられたお母様の髪の毛が原爆資料館に展示されていたのは当時から有名でした。
同級生の話を挙げたら切りがありません。皆さん、えらくなって…

ソフトボールを一緒にやっていた坂田俊明君、先沖悟君、お元気ですか?12月11日(日)福屋八丁堀本店横で「北朝鮮による拉致被害者救う会」広島支部の活動があります。おいでよ、年の暮れで忙しいだろうけど…広岡敬子さんも多分、今は名字が変わっておられるでしょう。(他の女性の方、フルネームで憶えておりません)そして隣の大家さんだった山田さん。たっちゃん、不肖妹の典子、あなた達は横田めぐみさんと同級生なんですよ、隣町の。アッコ姉ちゃんもバスで通ってたでしょ、太田川の河川敷を赤バスで…

ご案内の通り、12月11日(日)福屋八丁堀本店横で「救う会」のイベントがあります。どうか皆様のぞいていって下さい。できれば久しぶりって声をおかけ下されば幸いに存じます。

それから最後になって恐縮です。私がこの「救う会」の活動に参加する直接のきっかけは「日本のこころを大切にする党」代表の中山恭子先生と、評論家の西部邁先生の対談番組をYoutubeで拝見したからなんです。拉致問題に言及されて、ふと気がつきました。遅すぎるという批判を甘んじて受けます。ですがお二人には感謝しております。ありがとうございます。

 

あくまで架空の設定です。

という設定です。読者の方いかがでしょうか?「Negtvanetie」さんの著作者の方画像を無断使用しておりますが、こういう設定にしました。またルーマニアモルドバの歴史に詳しい方、ご忠告・アドバイス等お待ちしております。宜しくお願い申しあげます。

わたくしは「Negtva netie」です?

 

 

1935年現在のモルドバに生まれました。父は陸軍大将(当時はモルダヴィア民主共和国)です。しかし母親(エリシェバ・ネティエ)は名無しのなんとやら…所謂「妾めかけ」だったのです。母親は二人の子供、姉(エレナ)と私を産みました。姉はベッサラビア人と結婚し、そして従軍看護婦となり、''41年、ナチスドイツ軍と戦い、バルバロッサ作戦において塹壕の中で死に絶えました。わたくしもまた姉の後を追い、従軍看護婦を目指しておりました。第2次世界大戦後、''47年12月30日、ルーマニア人民共和国の誕生に伴い、わたくしもルーマニア人となったのです。

当時は看護婦を目指す女性たちの「学校」なんてありませんでした。すべて実戦の渦中で技術を身につけたものです。ルーマニア人民共和国は当時、ソビエト連邦の影響下にありました。私はユダヤ人の血統ですから、そのことをひた隠しにせざるをえませんでした。

そしてルーマニア共産党書記長ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジによってシベリアへ送られることになるのです。

シベリアではビロビジャンの収容所へ連行されました。そこでは、医療器具・薬品などありませんでしたが、看護婦らしいことは精一杯やっておりました。しばらくするうち、ある日本の方と知り合い、手引きされ、そして日本に逃亡するのです。後にその殿方は大物財界人となられました。

日本の舞鶴港に到着したわたしは、広島県のとある田舎町にやってきました。日本海沿いを経て兵庫県播磨をぬけ、岡山県高梁市から広島県に逃れて来たのです。日本の方は皆優しく接してくれました。当時昭和25年です。食糧危機をようやく脱しようという時期でしたので、わたしからすれば美味しいものばかり食べさせていただきました。感謝の念に堪えません。

わたくしは広島市から少し離れた場所で、看護婦へと歩み始めたのです。実は結婚しております。子供は一男一女、現在は離ればなれですが、仲良く暮らしております。

そして現在「日本のこころ、日本人とは…」を追い求めて余生を送っております。知識に対する欲求が、いま人生最大といっても過言ではございません。

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*1:姉エレナの勇姿です

*2:母エリシェバの墓

*3:ルーマニア共産党から指名手配された証拠です